昭和44年3月1日 朝の御理解  【入力者:岡村和一郎】



御理解第93節
「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。
人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」


 これは、あー、お取次に従事する者、ある、うー教会を持っておる、んー、まあいうなら先生に対する(?)御理解ということでございますけれども、これは、まあ教師だって、信者だって、お道の信奉者において変わりはないのですが、えーですから、ここのところを、うーん、「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て」と、こう、うー、いうところをですね、えー、神の(?)(これも?)、んー、「氏子は」というところはね、ただの氏子と頂かにゃいかん、ね。
 信心さして頂く者を、教祖様は「信者氏子」とおっしゃったんですよね。氏子というのは、世界中の、いわゆる人類。それを「氏子」と、教祖様は呼んでおられます。ね、ですから、ここでは信者氏子、ね、いわゆる信心をさせて頂いておる者も、氏子というのは、信心のない者。
 信心のない人は、信心のある人をです、ね、神と心得て参詣する。ということは、うー、信心しておる人は、やはり、仏様のような、神様のような、あー生き方をしておるんだ、それが本当だというふうに思うておるです。ね。
 ですから、ちょっと不都合なことがあると、「あの人は信心しよってから」と、すぐこの「信心」が出てくるでしょ。今日私、そういうふうな、いよいよここを頂いてまいりたいと思うです。ね。いわゆる、うー氏子と信者氏子の違い、信心のある者とない者の違いです。
 参詣する、うー心得て参詣する。(無理があるすな?)、参詣した氏子は、(今日はお留守じゃと言うが?)と頂くね。信心のない者と信心のある者が他と、例えばお付き合いをして、その人の中から「はああ、さすがに信心したさるけん違うよなあ」というものを感じさせきらなかったらね、もう神様は留守じゃというです。いわば、神様信心しよったっちゃ同じことと、こういうわけです。
 確かにそうですね。(?)家に神様をお祭りしておってもです、おが、拝みよるござるばってん、(?)ござるけれども、信心のなかもんと全然変わらんと、いう神様がまるきり留守じゃと、こういう。神様はござらんのと同じじゃと、こういう。
 それから、神(の迷う?)、(?)のことはできんと。もういつも、ね、いわゆる常住坐臥、私の心の中に絶えず神様の働きを感じておらなければならない、ということです。
いつも神様が、信心さして頂いておるという、いうならば、あー、ま、看板を下げておるようなもの。ね。

 いわゆる、うー、はー(※深い息を吐く)、薮神小神の前を通っても、一礼をするような心持ち。一礼をするような心持ち、まあ世間ではです、ね、相手にしないような人、に対してましてもです、一礼をするような、一礼(こうして?)通るような心持ち。ね。
 そこんところ、最後のところに、(みっこだしたりつながったり)しちゃならんとおっしゃるようにです、世間では相手にしないような、例えば人でありましてもです、ね、前を通る時、薮神小神の前を通るような時でも、ね、一礼をするようなその心持ちが、必、大事なんです、信心さしてもらう者は。ね。
 例えば、んならここに薮神様がござる。薮神様というのは、よくその薮の中に、ほこらがあったり、いー、こう石塔のようなものがあったり、そのようなことが、何するのか分からんようなその、(?)がよく、まあよく(世の中に?)参りますとありますね。(?)中に、あのー、うーん、(しんな?)をはって、まあそこに(?)だから、そこを受けて田や畑を作ってあげてるところもありますね。
 あのー、うーん、(?)のあいなかに、あのー、左側の手前のほうの、うー通りがあります。あすこの(?)に、畑の真ん中に何か石がこう(?)ね、それにいつも(シンナー?)がはってある。
 私、昔よくあすこのところの、(?)ですね、あのー通らせてもらった、大きくなった。(?)時に。あすこんところを(?)ここ通らせて頂く(?)に、ね、うーん、(なんて言うでしょうかね、霊的なその働き(でも?)申しましょうか、そこにその、祭ってある(?)霊というものがね、非常に生き生きとして喜びを(?)見せてくださるという時だったんです。
 というよ(りorうに?)ですね、(日本?)昔から(何?)からあすこにあったんですねぇ。ですから、あのー畑の真ん中に神様かが(あら?)祭ってあると。その(?)あったんですけれど。
 例えば、それは何様か分からんようなものであってもです、ね、私どもの信心が、えーまあいわゆる実意丁寧神信心というか、藪神の前を通っても一礼をするような心持ちというか。ね。ですからもう私どもはいつも、も、神様を頂いておるお道の(信者?)という気持ち、いわゆる、うー先生がこうやってその、んー、八波のご紋章のついた紋付きを着せて頂いておるような心持ちと、こう言われるが、そのー例えば、そのほこらの前を、うーん、たくさんの人が通るけれども、誰もきれいをする者もおらんけれど、「はあ、珍しい人があるもんじゃ。今私どもは(?)、まああのー、うーどこの誰さんじゃろうかと思うて、その神様がこうやって一生懸命おっしゃると、あのー背中に八波のご紋章のついておった。「はあ、金光大神の氏子じゃな」と。(もう?)金光大神はよい氏子を持って幸せじゃ、なかなか実意丁寧な人じゃとその、ま、藪神様が思いなさるじゃろうと。
 そこに、金光大神の(名前まで?)出るは、親の名前までが出る。さすがに金光様の信者だなあ、ということになると。こんところ、そこんところをもうほんとにそれぞれ頂きたいと、こう思うんですよね。ううん。ね。
 信心をしておっても、いわゆる心が、うー、神様いつも(向こうちょうる?)心がないと、ついそこに信心がある者もない者も変わらないような言動ですねぇ、いわゆる(?)することが、そういうことになってくる時に、(それ神々?)、神様お留守じゃというぅ、ね、えー、信心しよったっちゃ同じこったいと、こういうことになる。とは反対に、さすがに金光様の信心しござるけん違うなあ、あの家は、あの人は、というようなおかげを頂かなければならん。
 そこで、(毎日に?)行き届いた信心をせよと、こう言っておる。「常平生心の裃をつけておれ」とも言うてある。ね。いわゆる、自分の背中に八波のご紋章を背負うておると思わにゃいかん。前から見えんでも、(?)してから後ろから見ると、ああ、あのあの人は金光様の信者やと、分かるくらいなおかげを、分かってもらえるようなおかげを頂くためには、(いつもその?)藪神の前を通っても一礼をする(ような?)心持ちが必要である。

 人には上下(かみしも)があるが、神には上下がない。皆なべて神の氏子としてご覧になっておる。いつか、「人間はみな神の氏子じゃによって」とこういう。その神の氏子を、私達はまあ信者氏子としての立場で見る。
 信者氏子というのは、信心をさして頂いておるものという、も、立場で、いつもそこんところを、ね、頂いていくところに、人を見下したり、(嫌?)なったり、いや、見下さなければ、よう人が相手にしない人、または汚いと思う人、浅ましい人、ね。そういう人に対しましても、それを、おー、祈ってやれれるというかね、それをふつうに、それの人と、人に対して相対していくという。そういう心根が信心をさして頂く者には必要なんです。

 まあだいたい私は今日93節はこりゃあ、お道の教師(を?)お取次に携わらせて頂く者に対する御理解ですけれども、93節を頂きましたから、これを一般に訳しますと、一般の私どもが、皆さんがこれを頂くことになると、そういうふうに頂かなければならんだろうと、こう思う。
 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て」と、こう言うように、ね、「氏子は」というのは、一般の人という、一般の人は、信心をしておる人を、やはり神様のような、仏様のような生き方をする人だと思っておる。ね。
 ですから、あー、そこに私どもが、信心のあるもんとないもんの違いをです、発揮でけれる者を、いつも心ん中に頂いておかなければならん、というふうに、この、今日はここんところを頂いて、えー、まあ、その93節を、の今日は御理解を終わらせて頂きますけれども、今日はですね、この93節という、そのここんところだけを、実は頂いたんです。
御理解ではなくてね、この93節というところ。

 そこでこの93節(も?)また、これちょっと書き直してもらわにゃいかん。この93節じゃいけませんから、9は苦労の「苦」を書いて頂く。ね。10は「重」なると書いてもらわないと。苦重、ね。九重連峰の苦重ですね、苦重。苦が重なる。3は参拝の「参」。壱弐参の、この感じが難しいと、お参りをするという、あの参るという字。
 私この、93のところから、いわば私の上には動かない。ですから、今のこの御理解のところは、あ、(教祖orきょうさん?)が頂いたから、ね、ここはまあお道の先生に対する御理解であろうけれども、私は、このようなふうに頂かないと、いわゆる実意丁寧。
 私は思うんですけれどもね、スゥーッ、この、おーおかげを受けるということの、そのおかげが、頂いたおかげをお粗末にならないということをね、何と言うても、下を向いて、もう下を向いておる時、大地を見つめておる時、大地にひれ伏しておる時、いうなら「私のような者が」と思うておる時、「私のような者が」っと思うておる時に、頂くおかげなら間違いがないと。ね。
 いうなら、大地にひれ伏して詫びて詫びて詫びぬいておる時。ね。そういう姿勢の時に、受けるおかげなら、ぜったい間違いがない。いわゆるもったいない、もったいないもったいないと言うて頂くおかげが、なら間違いない。ね。

 そのために、お互いが、もう93節を私が申しますところをですね、よぅ玩味してみなければならんと思うんです。ね。そんためにやはり、自分をいよいよギリギリに見極めさしてもらうということが、必要とするのですね。
 例えば今日私が申しました、93節の93を、苦が重なる参るとこう。ね。そのまあ頂きましたわけですけれども、ここんところをですね、例えばあのー、苦が重なるということは、もう難儀から難儀、苦労から苦労。いうなら、そういう、まあいうなら困った問題が、次々と重なるような時というようなことなんでしょう。ね、ふつうで言えば、困った時、まあいうなら、「これほど信心するのに、どうしてこのようなことが」というような、(ことor問い)なんです。ね。
 そう(※咳)、そういう時にですね、私どもは、これが私の信心の実体の姿であると、頂かにゃいけません。ね。例えば、困っこととか難儀なことが起こってくる時にですね、ね、いわゆる苦肉が重なるような時ですね。そういう時にはね、これが私の信心の実体なのだと。これが私の信心の姿なのだと。
 
 今日、私はあることをお願いさしてもらいよりましたらね、こう天秤をかついでるんですよ。それも、ああ大して入っ、重たいものが入ってない。入ってなかろうような感じの、小さい、うーんって言うんでしょうか、うー昔のあの、うーん、(ておきっていうね、ちっさておき、ておき?)ぐらいなものが山にこう、家族こう持ってある、か、かついでいる。
 それでちょっとした調子に、前の方がすっと落ちたもんだから、後ろんとをまた、こう引く、落ちた。(?)ながら落ちてある。いうなら、両方にかついでおったおかげを落としてわけです。ね。その時に、肩にのっておるものは、その天秤だけであった。ね。
 私、そのことを頂いてから、(いろいろ?)そのことを申しております。私達が苦肉が重なる、今日はそういうお知らせを頂いてから、この93っていうことを頂く。ね。いうなら、苦肉が重なるっということは、そのこちらのおかげも落とした、後ろのおかげも落としたというような時ですね、そういう時に、天秤ですね、天秤とは天が平たいと書いてある。ね。
 これがいわゆる平生。天秤。うしろのおかげも落とした、前のおかげも落としたと、時に肩にのっておるものは、その天秤棒一本だと。だから、そういう時にです、天秤の心になれという。これが私の信心の実体なのだということです。これが私の信心の姿なのだと。そこには「これほど信心するのに」といったようなものはないわけですね。
 「これが私に、を、し」、「これが私の信心なのだ」。ね。そこがいわゆる苦重ですね。いわゆる、苦と苦が重なったような時、そこでこの苦重参なんです。参という字を参る(というしょう?)、申しますね、壱弐参の漢字の参。参るということは、そこからの信心というふうに頂かなきゃならんとですね。そういう時でも、一生懸命参るということだと。そういう時に、自分の信心の本当の姿に触れて、触れた気持ちでです、これが自分一家の信心の姿だと悟らしてもろうてです、さあ、そこからの信心。
 そこからの信心。そこから受けて(いかんがた?)。いうならば、地に、地にひれ伏したい。(そりゃそうやった?)。これが私の信心の姿だと分からしてもらう、その心が地にひれ伏した姿なのです。ね。

 そこには、おかげを頂きたらんごと思うとるということもなからなければ、「これほど信心するのに」というのでもない。これが私の信心の実体だと分からしてもらう時、ね、そこからの信心、いわゆる!93である。ね。
 いうなら、90(苦重)参る、下は、節(せつ)というのは「節(ふし)」ということである。その、そこんところの信心を、参る、そのとこの信心を、これが私の信心の姿であるとして、なお一、一心の信心がでけ、お参りがでけ、修行がでけ、おすがりがでけ(る?ところにです、その、節(せつ)ですね、その、苦肉に重なるような節(ふし)を、いわば通りぬけることができる。
 その節を通り越えた向こうに、いわば、ね、苦肉が重なるということは、99(くじゅうく)ということですが、ね、苦肉が重なる、その(ほしょう?)、節を乗り越えた時に、向こうになるのは、ひゃ、100節なのです。ね、100節じゃないね、100なのである。ね。だから、ここんところのおかげを頂いた時が、これが本当のおかげだということになるのです。

(30秒以上沈黙)

 どんな場合でも、(もう?)うろたえてはならん。ね。うろたえることは失敗するもとになる。慌ててならん。それがいつも自分の心の中にですね、ね。いわゆる、氏子、「氏子が神の守りをしている者を神と心得て」と、こういうところをです、信心のない人は、信心をしておる者を、やはり神様のような生き方をしておることを、お神様でも信心する人の姿だと思うておる。ね。
 ですから、事実、私どもの心の中に、神様が生き生きと働いてござらなければならん。ね。それが、ふつうは気がつかないけれども、私どもが、ね、一つの難儀を感じたり、その難儀が重なった思いのする、する時にです、ね、いよいよ私はそこんところをね、これが私の信心の姿である、実体であると分からしてもらって、いよいよ大地にひれ伏したような姿。
 信心をもって、(?)する時にですね、なるほど、信心する人は、まあいわば違うということを、先ほどでも申しましたように、なるほど金光様は、良い氏子を持って幸せじゃなあと、親の名前まで出る時である。ね。
 これはもう私達の助かりじゃない。いわゆる、ね、例えばそれをもう少し身近で言うならば、ね、あの人は合楽に、合楽にと毎日参りよんなさるが、やっぱり合楽で教えを受けておられるけん違う、と。ね。ほんとに合楽の先生という人は、よっぽど偉か人じゃあ。ね。あの人は、あのように導きなさるところを見るとです、合楽の先生っちゅう人は、偉い人じゃろうと、合楽の先生まで値打ちが出るということ。ね。

 私そこんところが信心させて頂く者は大事だと思うんです。その親の喜び、が、信心がおかげになっていかんはずがないと同時に、そういう心の状態でおりませんとです、ね、苦肉が重なるというかね、苦重という時にですね、その次の「参」が生まれてこない。次の信心が生き生きとしてこない。ね。
 (でも?)この100さ、100ということにと、届かない。不徳が重なることを、苦重とこういうぞ。ね。次の参があって、参というのが、いわゆる(お参り?)というか、信心というか、次の信心がでけた時に、(3?)節の節ですね、節を乗り越えることができる。そこにあるのが100である。いっぱしのおかげということなんです。100ということは、いっぱしのおかげということである。ね。
 神様が、どうぞここを乗り越えて、ここを受けてくれよとおっしゃるおかげなのである。ね。そこんところのおかげを頂かせて頂く。

 ふつうの時にはね、信心のあるもんでもないもんでも、そう変わらんのです。ね。なーにもないから分からん、か、変わらんというのが分からない。けれども、そこに何かがある時に、はじめて信心さして頂く者の値打ちが発揮されなければいけないんです。ね。
 その発揮し(う?)弱いというのがです、また、発揮することがです、私どもが、いわば地にひれ伏しておるような時、ね。また、その地にひれ伏しておるような時に、受けるおかげならば、間違いがなくもったいないという心で受けられる。
 むしろ、ここに持っておる天秤にかついでおった、あんまり大したようなことでもないような(ものくにおうておる?)けれども、この後ろのおかげも前のおかげも一いっぺん落とすほうがいい。
 そして天秤になるがいい。天が平たい。神様は、ね、その氏子に対する本当の姿をそれによって分からせてくださる。天の心を分からせてくださる、神の心を分からせてくださるって。ね。「これがお前の信心の実ぞ」と分からして頂く時に、それを平生の心で受けさせてもろうて。ね。そうどころではなかろうと、こう自分の心にも分からしてもろうて、そこから、いわば、いよいよ、おー地にひれ伏した信心ができる。ね。
 地を低うして、頭が地につくようにしておる時に、頂くおかげ。このおかげならば、間違いがない、落とすことがない。なぜって、もう地にひれ伏しておると。いわばそれを、その、有り難いというよりも、むしろもったいないとして受ける。だから間違いがない。 このようなおかげを受けていく、もったいないと、こういう信心。ね。そういう信心の姿に、私どもは、ね、「常平生、心に上下をつけておれ」と。「人には上下があるが、神には上下がない、人間がみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならんぞ」というようなおかげがいつも頂けれる。ね。

 そこに、いよいよ信心させて頂いておる者の本当の、これは姿。ね。信心させて頂く者の、いわゆる生き姿がそこにある。そしてそこには、んなら私どもが助かっていけれる道だけではなくて、神様の名前である、親の名前まで出る、おかげが受けられるのです。
 今日は、(?)と申します93節というその、おー、いわば、いわばその93節という文字から、ただ今申しましたような、まあ御理解を頂いたわけでございますけれども、これは3月という月は、やはり3の月ですからね、3というのは、もうお参りの月ですからね。
 お参りの月というのは、いよいよ(※強調)信心にならせて頂かなければならんという月ですからね。ね。4月が開花の時ですね、花がこう咲く時です。ですから、この3月という月をですね、いよいよ実意丁寧、いわゆる神信心をならしてもろうて、それは人の見せ(とてでも?)ありませんけれども、人に見せるためじゃないですけれども、誰が見てもなるほど、信心しておる人の姿というものがです、尊くもまた、有り難く見えるような内容を、いよいよ見極めて頂いていきたい。
 そして、ほんとに地を低うしてお(け?)。ね。そして、現在の自分の信心の姿というものを、本気で見極めさせて頂きたい。そして、受けるそこのおかげをです、私のような信心にかくまでという、もったいない、もったいないというおかげを頂きたい。ね。
 いわゆる3月の月を、本当の意味においての参りの月というかね、いわゆる信心の月として、おかげを頂きたい。しかもそれは、その上に苦渋が重なっておっても、いわゆる苦肉が重なっておっても、そこを自分の信心のすが、姿だと。それが、もういうなあらば公平な、神様の目からご覧になって、それがもう当然な自分の姿であるとしてです、そこんところをおかげを頂きぬいていきたい。
 神の前を空けておくことはできん、とおっしゃるようにね、自分の心の中から、神様を空けてはならん、いつも神様が、うー、生き生きと働いてござる、うー、ような思いでの信心も頂きたいと思いますね。 どうぞ。
 この3月は、そういう生き方で進ませて頂きたいと、私も、うー思うております。皆さんもどうぞ(信心?)一つ、3の信心、いわゆるお参りの信心、も本気でもお参りの信心。ね。
 どんなことがあっても自分の心からお参りを欠かすことのない信心。ね、(どんな?)時でも自分の心から、神様を外すことのない信心を頂きたいと思います。どうぞ。